生と死を忘れる

生を肯定して、痛みを否定するのは生存本能的に自然だ。生き残る上で実に都合の良い考え方だ。

 

でも、人生の最後のページは誰にとっても共通だ。死を悪とするならば、人生は全てバッドエンドだ。それに近づくことさえも悲観的に思ってしまうかもしれない。

 

反対に、死を肯定して、生を否定することは生存本能に背く行為だ。それは強い苦痛を伴うだろう。何十万年、生き残ってきた強烈な生存本能を受け継ぐ我々にとっては耐え難いほどに辛いものだ。(だから、生き残っているわけだが)

 

長期的には、どちらかの肩を持つことで、幸せになれるとは思えない。だから、どちらも許容して、それが訪れるまで生存本能に則って日々を過ごす。どれだけ怯えたって必ずいつか来るなら気にする必要なんてない。いつ来るかもわからないなら、心配しても無駄。それなら、日々を過ごすために、一歩先、手の届く幸せの方が重要だ。

生も死も体験するまでは言葉に過ぎない。死は予測できないのだから、それを忘れて日々を過ごす。

 

可愛いは赤ちゃんらしさに帰着する?

「可愛いは赤ちゃんらしさと強く関係する」

 

・色としてのピンク 赤ちゃんの肌色

・小動物 赤ちゃんの小さなサイズ感

・天然・おっちょこちょいな振る舞い 赤ちゃんの幼稚さ

・丸みを帯びた形 筋肉が発達していない赤ちゃんの体のフォルム

・小顔(=目が大きく見える)の可愛さ 赤ちゃんと顔立ちのサイズ感が似ている(ベビーフェイス)

 

*顔の大きさは成長とともに大きく変化するが、目の大きさは生まれてから大きな変化をすることはない。そのため、成長とともに顔に対する目の大きさ比率は小さくなっていく。

 

他にも、若さ、か弱さ、表情の豊かさ、素直さ、肌の綺麗さ、柔らかさと可愛いから連想される言葉の多くは赤ちゃんを想起させる。

 

赤ちゃんが可愛いのは生存本能として自然。だって、人類がもし赤ちゃんを可愛い・守りたいと思う生き物でなければここまで繁栄しなかっただろうから。

 

いわば、 「赤ちゃんは可愛いのプロ」、愛嬌や可愛いらしさを学ぶ上でこれ以上の手本はいないだろう。

ちっぽけな集団と大きなあなた

学校や職場、自分が属する集団も全体から見れば一部でしかない。100人と言えば大きな数字に見えるし、自分の意思決定に強く影響を与える数字だ。でも、100人なんて日本人の中だけで考えてもわずか0.000001%程度に過ぎない。

たとえ、あなたの行動が原因で100人に嫌われたとしても、日本人のほとんどはあなたのことを知りもせず、気にもかけてすらいない。

 

俯瞰して見てみると、日々属する集団のほとんどは、あなたが自分の頭で考えた意志を押し殺すほどに大した存在じゃないかもしれない。

感情×論理

「〜したい」を「〜すべき」で隠すより、

「〜したい」を「〜すべき」で実現する

 

人間の本能「〜したい」という感情は、生き残ってきた遺伝子が語る情報。急速な社会変化に対応できないことはあるかもしれないが、生き残る上で適していないことは少ない。

 

論理と感情は反対に捉えられるが、論理も感情も生き残るためにある道具という点では同じはず。論理は社会的な活動のためのより客観的な道具で、感情はより個人的な欲を満たすための道具であるというだけで。

 

社会は、価値の交換で支え合う。だから、自分の感情ばかり満たせるようにはできていない。だからといって、自分の感情を隠すことは自分の幸せにつながりにくい。

 

人のために自分のやりたいことを隠すより、「自分がやりたいこと」を「他人のためになる形で実現すること」が理想の形だと思う。