言葉を正しく使えているという錯覚

大人になって、よく意味を理解していない言葉がたくさんあることに気づく。

それって何?とか聞かれたとしたら、答えられないと言葉をほったらかしにしたまま、ただ目の前の相手の話す言葉に相槌を打って、誰かが言ったようなことを真似している気がする。

だから、まず言葉の「意味に対する自分のイメージを確立する」。

次に、イメージを言葉に変換して、自分の想いを表現する。

そして、最後にその「イメージの共有ができているという前提が一致していないかもしれない」という意識を持って相手の話を聞いて会話をする。

 

自分の想いをどう言葉に表現できるか、

そして相手の言葉の裏側にどういう意味が含まれているか。

それを想像する力を育んで生きたい。

自分や相手を理解するってそういうこと。

言葉に表してみなければ、鏡を置かなければ自分の姿は見えない。

死への抵抗は今を生きること

人間いつか必ず死ぬ

恐ろしくて避けたくなるが度々思い出す

そういうものに限って事実である

 

避けられない死に抵抗することが生きること

だと思う

命に終わりがあるからこそ限りがある

限りがあるからこそ価値が生まれる

 

いつか死ぬ事実からは逃れられない

でも今生きて自分の選択をすること、希望を持つことを奪うことはできない

 

いつか死ぬなら今を生きる

いつかのことはさておき

今何したいかに集中する

 

前向きに考えるなら

いつか死ぬは今ある全ての悩みを消すことができる事実だ

いつか死ぬから逃れたくなったら今を見る

何も考えず今楽しむ

会話って聞くことから始まるよね

人間関係を築く会話の目的は場の人が楽しめる範囲でお互いを知り合うこと、方法はその場の人が共有できる話だと思う。

仕事以外の会話に目的なんか持つなと思うこともあるけど、悲しいかなそういうことも考えてしまう。

 

なんでお互いを知り合うことが重要かって、

結局みんなお互い傷つかない範囲で、素直な自分を受け入れてもらいながら楽しみたいって思ってるはず。

その上では素を出せる空間と、その人のキャラクターを知れる会話が必要だと思う。

 

人のキャラクターが出るのは、行動の前と後。なぜ?それを選んだかの選択の理由と、それをしてどう感じたのかの感想だと思う。

だから聞きたいのはあなたが何をしたかというより、なぜしたか?それをしてどう思ったのか?それを知ることが相手に共感、理解して相手を認めたり受け入れること、相手を傷つけないようにすることにつながる。

 

お互いを知り合う上で重要なのは、なんでも受け入れてもらえるような空間、お互いが安心して自己開示できる空間を作り出すこと。

 

話題として適するのは場にいる人が共有できる話で、一番やりやすいのはその場にあるものを使った話。

そこから見える景色が話題のヒントになる。

居酒屋ならお酒、料理とか、時計、服、眼鏡みたいな身につけてるものとか。

個人的には散歩とか書店徘徊しながらあーでもないこーでもないと話すのが好き。見える景色が共有できるし、それもゆっくり歩きながら移り変わっていくから話題に困りにくいし、ちょっとしたランダム性があって飽きない。

身内ネタは参加できれば楽しいが、できないと辛いだけ。自分は話せないのに自分以外が急にフランス語で話し始めたくらい困る。

 

知ってて共感できることは共感すればいい。

知ってて共感できないことはそういう考え方もあるのかと発見を喜んで一定の理解をもつ。肯定できないなら黙ってればいい。

知らないことには詳しくないんだけど、ーなの?とか、へーそうなんだとか。好奇心を隠さないでそこで聞いて知ればいい。

 

まずは受け入れて、否定と、わからないは基本的に避けつつ会話することがお互いを知る上では大事なんじゃないかなって思ってたりする。

世間に逆らう心も大切にしていきたいよね

会話を楽しめるかは話し手、聞き手の気の持ちようだと思う。その上で、楽しみにくい話があるとすらなら話し手独自のナニカが乗ってない話なんじゃないかな。

 

一般論とかありきたりな意見や表現が並ぶほどに会話って単調になりやすい。

太陽って東から出てきて、西に沈むんだと言われてもまーそーだよねと。そーなんだくらいで意外性がない。それって、その人以外と話しても同じだし、ありきたりで、その人と話してる特別感がなくなっちゃう。

 

世間はこう、じゃあ、あなたはどう思うの?とか一般的にはこう、でもそこでは何が起きたのか。ちょっとくらい嫌われたって、驚かれたって、引かれたっていいからさ。

 

だから、世間的にはこうだけど、俺はこう思うっていう流されない反骨心とか大切にしたいねって思う。聞き手としてそういう変わったことを受け入れて楽しみたいよねって。

ちょっとくらい厨二病でもいいよねって。ちょっとくらい変人でもいいよねって。

それを受け入れてくれる人といれば良いじゃないと。受け入れられないことを恐れて、一般論とか事実を朗読するくらいなら、素直に話そうと。

 

会話を楽しむ上で、理想の話し手は当たり前を持ちつつ自分を知ってる人。聞き手の理想は話し手の変人性を受け入れられる人だと思う。

 

世間はこう、でも自分はー。とか

一般的にはこう、でもその時はー。

みたいな話をしたいよね。

 

そして、聞き手としては話し手のそういう話を許容したい。単調な話なら特殊性とかその人ならではの特別感を加えてあげたい。

生きていることに意味なんていらない

生きている意味ってなんだろう

おそらく恐怖やストレスに立ち向かうため、意味が必要になった時に無意識的に考えることだと思うが、最初から生きていることに意味なんていらないのだ。

それを考えるまで何も考えず生きてきたように。

 

そんなこと考えなくても生きていられるような性質を持っていなければ、

ここまで先祖代々生きてこなかっただろう。

第一、意味があったとしてそんなもの生存本能的に生きやすいような都合のいい一考え方にすぎないんじゃないかとそう思う。

 

それでもなお

もし、生きていることに意味が欲しいなら、

それは誰しもが共有できる唯一無二の答えというより、

自分にしか見えないたった一つかけがえのない宝物みたいなものなんじゃないかな。

それが見つかるまでは、それを探すことが生きている意味になるんじゃないかなと思う。

恐れることは安全である

生きることは恐怖と共に歩むことだと思う。

恐怖心があるからこそ安心して生きることができる。

恐れることは安全である。

 

恐怖心、そしてそこから生まれる不安は自分を安全な場所に置くためのセンサーなのだと。

 

だが、不安の大半は妄想であり現実にならない、

現実になってしまえば対処するために準備して対応できる、

準備する時間が足りないならばそもそも考える必要なんてないのだ。

立ち向かうなかで何か得るものを見つければ良い。

 

恐怖を感じることは生存本能が働いていて、未来を想像できる人間的な賢さを持っている証拠である。

それでもなお、立ち向かおうとしているのはあなたの強さの証明である。